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続・父が残してくれたもの

≪前回の続き≫

講堂の様な所に多くの人たちが入った。翌日は雨だった。

カンパンと言う、塩味だけのビスケットの様な物が、皆に配給された。黒パンの様な物も確か

貰ったようにも記憶している。

燃えていた家の事が、とても気になっていた。

親たちも、これからの行動がどのようになるのか、誰も知らなかった。



翌朝、雨が止んでいた。焼けた家に行ってみると、辺りは完全に焼けて遠くまで見渡せた。

市岡の三社神社の石の鳥居だけは、目の前に立っていた。家が立て込んでいた頃は、歩いても大分あ

ると思っていたところだ。

焼け跡辺りには見覚えのある物が色々あった。しかし、その時、持って帰る物は何も無かった。

これで、遂に私たちは本当に何もかも無くした。誰にも文句を言えない事が、多くの人たちに突然

降りかかって来たのだ。人々は命が助かっただけが幸せと、口々に表向きの気休めの言葉を無表情に

話していた。事実、死んだ人も大怪我の人も、周りには溢れていた。

学校に何日居たのか覚えていない。



ある日、私と母親は、阿倍野までリヤカーを引っ張って歩いて行った。

途中の電車通りは、凄惨を極めた。

電車は焼けて鉄の骨組みだけになっていて、電柱は道路に横たわっていた。

人々はそれを避けながら歩いていた。

また、道の端では自転車に乗っていた人が、そのまま黒焦げになって横たわっているのも見た。

人々は、皆、無表情で黙って歩いていた。

それでも、阿倍野辺りはビルが立ち並んで賑やかに感じられた。

空は、連日どんよりとしていたと思う。

戦災の後、どのくらい大阪に居たのか、今は思い出せない。




そして、田舎に帰ることになった。

大阪駅まで歩いて出た。駅は、人々でごった返していた。

切符を買うのも、何日か掛かったと思う。何故なら、昼も夜も過ごした記憶があるからだ。

駅の待合室では、荷物から一時も目を離せない。一度、目の前で持ち逃げされるところだった。

その時、母親は物凄い形相で、その人に食って掛かった。

相手は何も言わずに、こそこそと逃げて行った。

人前で食べ物でも出したら、必ず人が寄って来た。

「売ってくれ」は、まだ良い方で「食べ物が有るのなら分けろ」と、迫ってくる人もいた。

こういうのを目の当たりにすると、怖さを感じた。



そうして、やっとの思いで汽車に乗れたら、今度は超満員で身動きも出来ない。

途中、駅に着いても何分停車するのか何にも分からない。

どのくらいかかったのか覚えていないが、駅に着くと乗客は皆、窓から乗り降りした。

女と子どもにとっては、辛い旅に違いなかった。

乗客のほとんどは、風呂にも入らず、着物も着たままの、皆、異様な臭い匂いに包まれていた。

私は、今では自分の責任になった感じの洋傘を、後生大事にしっかりと持って、帰り着くまで終始、

手から離さなかった。


やっとの思いで広島県の福山に着いた。汽車から降りるのも、また大変だった思いがある。

そして、何か月かして、今度は福山も空襲に遭うのである。

その後、あの忘れられない出来事、広島の原爆。

こうして、遂にというか太平洋戦争は終わるのである。



あの頃と今、大きく時代は変わった。

何もかも、殆ど細かい事は忘れてしまった。

でも、心に残っている事も少しはある。

何か伝えて残してやれる物が少しでもあればと書いてみた。

短い文章で、とても、語り尽くせるものではないが、これを読んで次の世代へと語り継いでくれれば

幸いに思う。





【後記】-------------------------------------
父の体験記を貰った時、最初はびっくりしました。

大阪に住んで居たことや空襲にあったことは、少し聞いた覚えがありましたが、

こんなに大変な思いをしたことは全く知らなかったし、ハーモニカのことなんか、

聞いたこともなかったんですよ。。

私と父親は、よく話をしていた方だと思いますが、本当に辛い思いは親子でも

なかなか話せないもんなんですね。改めて父の愛情を感じました。

感傷的になるのではなく、父の思いをしっかりと受け取りたいと思います。

平和な今を必死に作り上げて来てくれた人たちに感謝して、受け継いで行かなきゃ

いけませんよね。

長い文章を読んでくださって本当にありがとうございました<(_ _)>




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