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父が残してくれたもの

ご無沙汰しております<(_ _)>

ちょっと思い立ってこの記事を書くことにしました。

今まで書いた記事とは違って、かなり暗いです( ̄  ̄;)


父が亡くなって随分経ちますが、父の書いた戦時中の体験記があることを思い出しました。

少しでも他の人の目に触れて、ちょっとでも記憶に残ってもらえるのはやっぱりここかな。

父の思いを無駄にしちゃいけないよね[たらーっ(汗)]

書くなら今だよね~[あせあせ(飛び散る汗)]

ということで、ちょっとためらいもあったんですが、思い切って記事にすることにしました。

長文申し訳ありませんが、読んでいただけるとありがたいです。



           「私の記憶」

第二次世界大戦の終戦の年のことである。私は小学校の一年生だったと思う。

住んで居たのは、大阪市港区八雲というところだった。

当時、私の父親はあの赤紙によって戦争に駆り出されていた。

日本の多くの家庭と同じ様に、女と子どもだけの家庭で、母親と祖母と私の三人で暮らしていた。

その頃の小学校は『国民学校』と言っていた。学校では男の先生は軍服の人が多く、足にはゲートル

を巻いていた。ゲートルとは、すねの下から足首まで布でぐるぐると巻く帯の事である。

女の先生は着物に袴姿の人が多かった様な記憶がある。

生徒たちは皆、制服で帽子を被っていた。


さて、私には忘れられない思い出がある。それは、小父さんに何かの祝いか記念だったと思うが

ハーモニカを貰った。本当に嬉しくて天にも昇る思いだった。

その頃は、値段も高く誰でも今の様に気軽に買えるというものではなかったと思う。

それは、私にとっては宝物で、勿論、曲などは吹かれないのだが、夜寝る時も持って寝ていた

くらいだった。でも、私の親としては余り好ましいことではなかったのかもしれない。

当時は子どもの持つ物ではなかったらしい。

或る日、母親が何故だったかのかはっきりしないが、多分その時「まだおまえには早い」とでも

思ったのだろうか、箪笥の上の引戸の奥に取り上げてしまった。

まだ、箪笥のその場所は私にとっては高過ぎて手が届かなかった。

それでも、その場所だけはずっといつまでも私の心の中で忘れる事は無かった。



その頃は、もう戦争の末期で、B29と言って(私たちは何時もそう呼んでいた)大型で主翼に

四つのプロペラを付けた爆撃機が上空に飛来する日が毎日のように見られるようになった。

私たちはこっそりと上空を見上げては地団駄踏む思いだった。

銀色のその機体は夕日にキラキラと輝いて悠然と飛んで行った。


そうして運命の日、大阪大空襲の日が来た。

連日、飛行機が三機とか六機とか編隊で上空を通過して行った。

昼間でも空襲警報が発令されていて、私たちはその度に頭に座布団を二つ折りにしたような

頭巾を被り、防空壕に入らなければならなかった。

その頃は、もう日本軍は敵機に向かって砲は撃たなかった。

私たちは防空壕に入ることには何の抵抗も感じなく馴れたものだった。

小学生の私たちでも、もう戦争が日本に利あらずと言うことぐらいは薄々と感じていた。

人々はそれでも黙って日本の行く末を案じつつ、小さな希望さえ持って生きていたと思う。


それは二月も終わりの頃だった。その日の昼間は静かな一日だった。

夕飯が済んだ少し後だったと思う。いつものようにサイレンが鳴って『空襲警報発令・・』と

メガホンで伝えて歩く男の人の声がした。電灯には黒いカバーを掛けて、近所の壕に急いで入った。

暫くすると飛行機の爆音がしてきた。いつもは上空を飛ぶ飛行機の音がして、それが飛び去ると

間も無く『警報解除』の声が聞こえてくるはずなのに、その日はいつもとは何かが違っていた。



飛行機の音が際限もなく長く続いていたような気がする。その後、戦闘機が機銃掃射する様な音と、

低空で戦闘機が飛んだり、機銃弾が道路に当たって弾ける様な音がして、外は異様な雰囲気がいつも

より長く続いた。皆、壕の中で息を殺してじっと無言で耐えていた。

どのくらい経ったのだろうか。そのうち静かになった。

『警報解除』の声がしたとは思わない。みんなが外に動き出した。

私も後から皆に続いて外に出た。すると、空一面にキラキラと星の様に光りながら落ちてくる物体が

見えた。後で分かった事だが、焼夷弾だと聞いた。

それはもう美しいとしか言えないような情景だった。しかし、その一瞬後はもう地獄の始まりだっ

た。その光った物が徐々に落下して来て、下に落ちて来るに従って光の幅が広がり、ばらばらと

あちこちに散らばって落ちて来た。中には私たちの立っている間近にも落ちて来た。落ちると一面に

炎が広がりドーンと大きな音がして燃え上がった。

「しゅるしゅるしゅる」と音がしてドーンと遠く近くそれが続いた。



暫くすると我に返り、周りの何もかもが喧騒として一度に耳に飛び込んできた。

「火事だー」とあちこちから声が聞こえてきた。私の周りの人たちもその時になって急に自分の家に

向かって駆け出し始めた。母親も皆と同じく駆けて行った。

私もその時になってふっと気付いた。そうだ、あの宝物、何とか持って来よう。それしか頭になかっ

た。もう夢中で駆けて家の中に入った。家の中は暗くて何も見えなかった。二階の箪笥の部屋へは

手で伝ってもすぐに行けた。二階には母が布団やら大切な書類等を風呂敷に包んでいた。

私は「ハーモニカを出して」と訴えた。母は私の声には耳を貸してくれない。「早く下に降りて」と

叫ぶように言う。その時、部屋の裏手の物干し台の所から炎が見えた。家が燃え出したのだ。

「早く」と急き立てるので私はもう諦めるしかなかった。

「これを持って」と渡された物は洋傘三本だった。それを持って仕方なく私は一旦下に降りた。

家の外に出てみると、五十メートルぐらい先の風呂屋の屋根から煙が立って炎もちらちらと見えてい

た。ぐるっと見渡すとあちこちで炎が見えていた。



その時の気持ちを思い出す度に私は涙が出てくる。その時は、恐怖とか緊張とかそんな感じは覚えて

いない。何にもましてハーモニカの事が気になっていたからと、今でもそう思っている。

私はもう一度上に上がってみようと思った。急いで又階段を上がって行った。

しかし、二階の雰囲気は、もう自分の事を言い出す様な時ではなかった。皆、燃えてくる家の中で何

とか少しでも身の回りの物とか手に持てる物を持って、一時でも早くその場を退避しようと、気が急

いている様子が手に取るように感じられた。

炎で部屋の中は明るくなっていて、私はそれでも諦めきれないでその場に立っていた。

すると、案の定大きな声でまた叱られ、もう諦める以外ないとその場を離れた。

親たちは手に持てるだけの物を持って、近所の人たちと炎の間をぞろぞろと歩いて近くの学校に一時

避難をした。今でも何故あの時自分でハーモニカを取り出して来なかったのかと思うことがある。




後、もう少しですが次回に続く(^^;)[あせあせ(飛び散る汗)]









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